* 『Suspended Melodies』 南條俊輔フランソワ+小池浩央



ギャラリーに足を踏み入れたとたん一瞬間があって、彼は迎えてくれた。
いつも、今までいた時間からすぐにくるりと向きを変えるイメージでは確かにないけれど何か違うな、と感じていたら、この作品について文章を書いていたと言う。なにかまだその流れや熱から覚めないような目をしてる。それとも躊躇。
それが、今回のはじめの印象。

『A/R』の時とだいぶ違うな、と思う。
HPがあるんだ、と見せてくれた昔の風景写真に近かった。でももしかしたら風景を見せたい訳じゃない。それならもっと違う映り方のものを選ぶんじゃないかな。
目の前に被る光かな、…でもわからない…。

今回も一人の女の子が写されていた。
でもラウラをとる感じとはやっぱり違う。枚数が違うから当然だけれどそこに連続するものは見えなかった。
彼女が放つ光は強烈で、かっこ良かった。とても綺麗なひと。ちょっとファッション雑誌の、作り込まないスナップ風の広告みたい。
けれどそこになかなか自分を映し込むことはできなかった、つまり、小池くんがどんな視線でこの写真を撮ったのかということがラウラの時のようにはわからなかった。
もちろん比べる必要もないのだけれど、彼の作品をすごくたくさん見たことがあるわけではないので数少ない経験とつい照らし合わせてしまった。
それに、私が何かをわかろうとしなくてもいい。置き換えてみなくてもいい。
そんな見方をしなくったって。

くるっと見回して最後に目に入ったスナップに驚いた。
あ、なんか全然違う。
他の写真がぽつりぽつりと見せている情景をまるごとくつがえす。
やっぱりただの風景のひとつではなくて、この女の子を言いたかったのか。

そして話を聞いてだんだん自分の感じたことが時間をおいて組みあがっていった。
私が感じた戸惑いとかなんだろう?自体がまさにそこに提示されたことだというのが興味深いと思う。
写真や絵を私はその表面になにが表されているかという観点でしか見たことがなくて、作家がそのことを直接絵にのせていなくとも作家の感じていることや意図が絵を媒体とか通過地点みたいにして見ているひとに還ってくる、という作品の在り方があるということをあまり意識したことがなかった。もしかしたらそういう風に感じとっていたかもしれないし、絵になにが込められているかを感じることとそのこととは差のないことなのかもしれないけど、こう意識した途端、それはまったく違う経路で飛び込んできた。
画家の友人や小池くんのおかげだなぁと思う。

完成されて、もう何も差し挟めないいなくなった作家の作品とは違う、迷ったりその場所でやっと醸されたりひとり歩きをしたり…を今まさに見ることができるっていいなぁと思う。
そしてきっと多くのもういなくなった作家たちもこんなふうに作品と並んで生きたんだなぁと、考えた。

フランソワさんの作品もおもしろかった。
ひとつのテーマに絞ったものを、今度は見たいな。
ないまぜな感触を受け取って今回は満足、ということに。


小池くん、いろいろ話をありがとう。
踊ることにもとても繋がっている。