* 『ヴィルヘルム・ハンマースホイ展-静かなる詩情-』 1



考えていたよりも何倍も好きになってしまって、うまく書ける自信がまるでない。

何故、こんなに惹かれるのか。
絵の具を塗っている後姿や筆で色をおく感触のことを思う。
解説も絵の前でささやかれる言葉を聞いていても、このひとの絵を「寂しい」とか「閉塞感」という言葉であらわしている。
けれど、私は冷たさや空虚をほとんど感じなかった。
穏やかな静けさ、ふつふつと湧き上がりそうに見える動の、一瞬手前。
こころが静かにその景色を見ていたことを感じる。
暖色じゃあないけれど、かたくもないし、拒絶もない。
そこにあるのは平等みたいなもの。
もしことさらになにかを言おうとしないことが“拒絶”であるなら、そうなのかもしれないけれど。

なにしろ色が好きだ。
やっぱりグレーがすきなのだ、私は。
こんなに饒舌なグレーを一日にたくさん見てしまった。
それから色の厚みがいい。全然絵の具のことは分からないけれど油絵ってもっとぴかぴかしてもったりしている、というのが私の偏見なのだけれど、こんなふうにドライで薄くて、あっさりしている。
でも厚みみたいなものがある。
ミルフィーユみたいな、薄い厚さ…かなあ?
それともスピードだろうか。
直線の表現が多いのに、すぱっと切ったんじゃなくてちぎり絵みたいに。
丁寧にのせた色。
すかすかに見えない。じっくり浸透する。

そして構図。
世界からの切り取りかたがすごく気持ちいい。
おかしなことだけど、共感を感じるくらい。多分、私は写真でこうしたいんだろう。

+

気になった絵とか、感じたことをちょっとずつ。

・背中からひとを描くことについて
これについても私は全然拒絶されている印象を受けなかった。
後姿を自分と切り離してひたと観察しているわけではなくその内側に入り込み、やわらかく感触をかんじたいような。
なんとなく、私が猫とか赤ちゃんとかの後頭部に惹かれる理由に近いんじゃないか、という気がした。ずうずうしくも。
私からは見えないその表情が何を見ていてどんなふうに動くのか、映せるような気がする。
描くひとの視線はこの背中に注がれているんじゃない。描かれている人がみているものを一緒に見ている。一緒に感じているのではないかなあ、と、勝手に想像。

・絵の質やタイプについて
初めて出品した妹の肖像画から晩年まで、ほぼ絵が変わらない。
これだけ自分の欲するところを貫くってすごい。
実験みたいに何度も同じ場所を描いて同じひとを見て、それでも飽き足らなかったのは何故なんだろう。

<木立のある風景>
アムステルダムの外れで大きな青いペリカンみたいな鳥を見た池のことを思い出した。
暗い湿度のある土に、からっとした空。野放しの林。
押し寄せる波、暗い朝。
寒いけれどずっとそのままいたかった。

<フレズレクスホルム運河>
グレイッシュな紅色もいいし、霧がかかった全体も優しい。
音が響きながらしずかに抜けていく感じ。
こんな朝に呼吸をしたら鼻がいたくて、でもおなかはあったかいんだ。

<雪のクレスチャンボー宮殿>
まさにコペンハーゲンを歩き回ったときのことを思っていた。
キールのオーディションを終えて気まぐれに訪れたデンマーク。
地図も持たずに夜中11時半に着いて泣きべそをかいたコペンハーゲン駅。
2日間ひとりきり、ただただもくもくと雪の中を歩いた。
カフェ「クリムト」に入ってカプチーノを飲んで、また雪の中に出てゆく勇気を蓄えた。
この絵を見て、そういえばベルリンに帰る直前に迷子になったことを思い出した。クレスチャンボー宮殿の近くではなかったっけ。
その次の年、ひとみの色が左右違う女の子と街の中心のミュージアムを回った。
ちずちゃんと。
韓国焼肉も行ったよね。
懐かしいコペンハーゲン。


<ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部>
イタリアで旅行してこれしか描かなかったと聞いて急に、勝手に親近感のようなものを覚えた作品。
こんな柱と丸い窓があったらそりゃああちこちから見て一番美しい構図を見たくなるよね、と。
カタログで見るともうちょっと左から見ても美しいんじゃないかと思わせるんだけれど、実際の絵を思い返したら中心にあった丸窓から入る光がそれじゃあ強すぎる。やはりこの角度が正解。
丸窓の向こうは詳しく描かれていない。
なのに、なにかが見えるよう。
まぶしいから目を細めるけれど、なにかあることしかわからない。そんな感じ。
ここしか描かなかったのはここが特別気に入ったから、なのかな。


すごく時間がかかりそうだから、今日はここまで。