芋、顔のない、開いた花のこと

帰国してはじめての大学いもは芋どころ川越で。

可愛いカフェで、アーティストがアートだけをやっている時代ではない!というような鼻息の荒い話をして、そのあとスカラ座に行く。

川越スカラ座は2013年の5月に一度閉館したものの、現在はNPO法人が運営を引き継いでいる映画館。 映写機導入のためにクラウドファウンディングをしていたみたい。

期待して観すぎたのか、急展開したあたりから首をひねることしきり。 もしあのまま美しく凡庸に終わったとしても彼はファンタジーを語れる数少ない監督であるのだから、それで良かったのだ。 なぜそれまで丁寧に描写してきたかそけきものをうっちゃって、どんでん返したのか。

この頃、ほんとうにそれは私の感覚がうんうん、って頷いているか? ということを自分に尋ねるくせがついた。 今この手紙を書くべきだろうか? 今このことばを発するべきか? このことに賛成すべきか、どうしてか分からないまでも何か違うと認めるべきか? 踊る時にはそこにしか耳を傾けていないのに、踊らない私はこの声をおざなりにしてきた。 だからこころの芯が追いつかない。 けれど、そういうことでは日々、ちょっとしたことを間違うんだな、と気づいたから。

辻褄が合わなくても、説明がすらすらできなくてもいいんだ。 もっと、ただ、間違った翻訳なく、隔てなくやりとりをするようなことをしたいだけ。