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役に立つもの、意味のあるもの、という方向から入り込むだけではひろがらないものもあって、手当たり次第にひろげてみてからああ、これってこういうふうに使えるね、となると面白いしその先のふくらみかたも違うような気がする。
どっちかに固執せずに、でも忘れずに、手いっぱいで向かえ、ということなんだろう。

何ができるのかな。
私だったらこれだよと言えるもの、これなら任せられると思ってもらえるもの。

この何年かはいろんなチャンスに恵まれた。
いろんなひとに出会えた。
共演者もそうだし、それを見てくれるひとも。
写真を始めて今まで繋がりえなかったひととも接点を持つことができるようになった。
その機会をひとつづつ過ごしてきたけれど、やっぱりそこ、「わたしだから」というところが見出せなかったら(自分でも、そしてまわりからも)その機会は先につながってゆかない。
ひとつひとつを順に点灯させては消えてゆく、そういうありかたを続けることももしかしたらできるかもしれないけれど、それは今の自分の本意ではない。

何が足りないのかはわかっている。わかってきた。
踊りも写真も、近しいひととのありかたもすべておなじ。
わたしの求めるものはわたしの手の届かないところにあるんじゃなくて、私の足元のいちばん底にある。
掘る作業は自分にしかできない。