岩手/能、静と立体のこと



能は素敵だった。
演目は「六浦」「附子」「龍虎」の3つ。
昔は能の全幕をやったんだけど、今は半能が多いみたい。

六浦は紅葉を誉められたことから「功成り名とげては身退く」という謙譲を示して色を変えなくなった楓のはなし。
佐々木宗生さん(はじまる前に舞台で何歩か歩いているのを見てそれだけでわたしのからだは固まったのだけれど)が楓の精を舞われていた。
準備のときに背広を着てらして少しご挨拶したのだけれどその時と全然違う印象だった。
女性の顔の面をつけるだけでかえってシテはそこに奪われている、ような感触があった。
芸がたよりなかったという意味ではまったくなくて、面をつけることで楓の精になるのはシテ自身ではないのだ、という気がした。
つややかであやしい精の存在がそこにあって、踊りもしなやかだしちょっと置く空気が美しい。
でもなにか、そこにあらわされるものに絶えず抜き取られているような。
かといってそれが生まれる根っこは確かにシテの足元から沸きあがっているのだけれど。

附子は主人が留守の間に毒だから食べてはいけないよと言われたもの(実は砂糖)を食べてしまって、なんと言い訳をするか…というよく知られている狂言。
野村万作さんと、萬斎さんが演じていた。
狂言はことばも聞き取りやすいし面白かった。
舞台の空間の取りかたがとても大げさなんだけど、その思い切ったようすはストレート芝居ではない踊りの世界にもなんだか繋がるなーということを思った。

龍虎は、私はこれが一番ぞわぞわしたんだけれど、まず最初に岩山のような道具が運ばれてきたときにもうそこから発せられるなにかが尋常じゃなくて誰が出てくるんだろうかとわくわくした。
虎を演じた佐々木多門さんだったのだけれど、こんなにひたっと空間を止められるものなのか、こんなに静かに空気を切り裂けるものなのか…と瞬きもできなかった。
あんながさがさした着物をきて、足音も長いかつらも裾も雑な音もたてずおさまる場所にすっとおちつく。
虎が退場して、ずっとおしりが浮いて口も開いていた自分に気付いた。
六浦とはまったく対照的な豪快な演目でした。




おばあちゃんもこの能台で踊ったことがあって、六浦を踊った宗生さんとは同じお師匠さんだったそうだ。
といっても宗生さんとは年が違うし、おばあちゃんのことを覚えてはいないだろうけれど。
虎を演じた多門さんは一度横浜の能楽堂に行ったときにお会いしている。
おばあちゃんがなにやら長話をしかけていたんだっけ。
いつもおばあちゃん、すぐひとをつかまえては長話をしようとする。


歌舞伎で中村福助さんを見たときにも雷に打たれたみたいにがーん!ってなったんだけど、あんなに少々の動き、しかもとても平面的な動き(衣装もすごく平面的に作ってあった)しかしていないように一見おもわれるのに、その空間のほんとうに豊かなことにしびれた。
わたしなんかできるだけからだのあちこちをいろんな方向に飛び出させたり回転させたり螺旋をえがいたりしてみてもなんだかご苦労様、みたいな踊りになってないか心配なのに、なんなのこれ。と。
そして、そういうことに気付いたんだった。
自分がどういう踊り手になりたいかということ。

だから、この能楽堂が見たくなったんだった。
いまおもいだした。