* さくら、はじまりとそのおわり



大きな公園からあふれるような大きなさくらが、道をゆくひとに花びらを降りかけていた。
車のガラス越しに午後の日差しが眩しくて、笑い顔のその声は聞こえない。
なぜあんなに潔くさくらは散るんだろう。
透き通りそうに幸せな景色に見えた。
雪みたいだ、と思う。

儚いから散るのではなくて、生きているから散る。
生きていることはいつだって移り変わってゆくことで、そのいちばん先にはもちろん死がある。
蝉の抜け殻やさくらが散ることって、もう二度と変わらないもの(死)が生きるものと重なり、離れてゆく一瞬だから目を奪われるのかもしれない。

会社の途中の道によく水たまりをつくっている駐車場がある。
晴れていてもすっきりとは乾かないから、見た目よりもすこし深くへこんでいるんだろう。
花びらが落ちて微かな風に流されていた。
写真を撮りたいと強く思ったけれど通り過ぎなければならなかったからこのことだけをやきつけた。

ドイツへの飛行機に乗るとき、その日は雨で、さくらがぽつぽつと咲きかける時期だった。
雨で景色の流れるガラスに額をつけて、なんとかそのさくらを覚えておこうと思った。
日本に戻るときこのさくらは私を待っていてはくれないから。
そのときからさくらを見るとこころが痛むようになった。
どんなに楽しいときにも私のさくらとの記憶はあの出発に繋がっていて、わたしはわたしの横顔とさくらをだぶらせている。

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好きな写真を撮っているかたの日記にやっぱり手のひらに花びらをのせた写真があった。
なんて可愛い手だろう。
そしてなんて優しい視線だろう。
ちょうど私もこんな写真を撮っていて(可愛くない私の手だけど)、その偶然がなんだかうれしかった。
■勇気を出して歩かなくちゃ 宝物をつかみたいから