* 淡路島日記/おひさまのまっただなか、月の下



浜は表面が小さい~細かい石だった。
その下に砂が潜んでいるのだけれどぐいぐい突っ込まなければ足も砂にまみれない。
サンダル履きじゃない私でも躊躇せずに海に足をひたすことができた。


こんな風にときどきすっとはなちゃんはひとつの世界に入っているように見えることがあった。
けれど何も寄せ付けないという意味の「入る」ではなくて、はなちゃんの見ているものは、はなちゃんの見ていない方向とかその後姿を見つめるわたしにも連なるなにかをも抱えてくれる大きさがあるように思える。


もう何度も一緒に踊っているみのりちゃんのことを、この旅で前よりもずっと知ることができたような気がする。
みのりちゃんの見ているものはとてもくっきりしているような気がして、それは曖昧でだらしのないわたしがずかずかと触れてはいけないもののように思っていた。
そのきりっとした気高さのようなものの印象は変わらないけれど、もっとずっと、ほわほわとここちがよかった。
この豊かな色彩をまだまだ見ていたいと思うような。


ときどき自分のことがわからなくなった。
この共同生活でどうペースを作ったらいいのか、どこに落ち着けばいいのか…自分の存在のシェイプがわからなくなった。
その原因はもちろん自分のなかにあって、だからこそそそくさとそこを去ることができないということを痛いほど自覚した。
わたしには、当たり前に備えていなければならない(と私が思うところの)ものがなにもない。
空虚で、つついてもふよふよと靡くばかりなのかもしれない。
かといって変幻自在なわけではない。
ただ輪郭を持たないだけなのだ。

煙草を吸ってしんとひとりになるとき、ちりちりとこころに積もったそんな痛みをはかった。


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